僕の瞑想の体験談です。
僕が20代前半から今まで30年ぐらい瞑想をしてきたのですが、1ヶ月まったく行わない月もあれば、二日に一回ぐらいの間隔で行う月もありました。平均すると週に1回ぐらいのペースで、20分から40分ほど行ってきました。3分ぐらいの立禅を行っていた時もあります。手動瞑想や歩行瞑想を行っていた時期もあります。
月に一回、数ヶ月、禅宗のお寺で座禅会に参加したこともありました。
ほぼほぼ、気の向いた時に瞑想するという姿勢でした。
「幸せホルモン」というものがあります。オキシトシン、エンドルフィン、セロトニン等です。
30年ぐらい瞑想をしていて、どのような変化があったかというと10年目までは40分ぐらいすると、気持ちよくなり幸福感(おそらく幸せホルモンの分泌)がありました。10年過ぎるとそれがだんだん20分、10分、5分、1分と短くなりました。
座禅や瞑想ですが、瞑想をしているときの幸福感を実生活に役立てることが徐々にできるようになりました。
瞑想をさらに生活に活かせるようになったのは2年ほど前に『マインドフルネス 気づきの瞑想』(バンテ・H・グラナタナ著 出村佳子訳 サンガ)という本を読みヴィパッサナー瞑想に影響を受けたからでからです。2年ほど前から1、2秒で気持ちよく幸福を感じるようになりました。
ヴィパッサナー瞑想の特長の1つに呼吸に意識をむけるというものがあります。呼吸に意識を向けることによって、いま、ここにとどまり、内面を見つめることができるのです。その副産物として幸福感を得る(幸せホルモンの分泌)ることができるのです。
僕は呼吸を幸福感を得るためのスイッチにすることができました。
最近では呼吸だけでなく、指先に意識を向けることだったり、「幸せ」という言葉だったり、シンナムアミダブツだったりと、スイッチを増やし中です。
仕事中でも仕事の内容によりますが、呼吸に一度意識をむけることによって、幸福感を得ながら仕事をすることができるようになりました。
パソコンしている時でも、ウンコをしている時でも、歩いている時でも、ズボンをはいている時でも、掃除をしている時でも、皿を洗っている時でも幸せホルモンを出しながら行えます。
テレビ、パソコン、ビデオゲームなどがあればそれも楽しみます。ですがなくても、生きていくための食べ物、雨露しのげる場所、寒さを防げる衣類があれば幸せでいられる自信があります。「幸せはここにある」ことをいつも気づき続ける生活にかなり近づいています。
生きていると今でも、悲しみ、苦しみ、嫌な気分、怒りは当然あります。瞑想などで自分の内面を見つめるようにしていると、それらに長く囚われることが無く、自分に留めるのか手放すのか選択できるようになってきました。手放したいことは素早く手放せるようになりました。
自分のアホな部分、愚かな部分なども受け入れ、愛せるようになってきました。同時に他者に対する批判が減り、他者を受け入れ愛せるようになってきました。
瞑想も毎日規則的に行っていたらもっと早く成長できたかもしれません。ですが瞑想を毎日規則正しくやるという事を自分に課していたら、瞑想が苦行になり数年でやめていたかもしれません。これからも、幸せであることに気づきつつ、僕自身の人生の目標に自分にあった速さで取り組んでいきます。
幸せに至る道は人が100人いたら100通りの道があります。何を幸せと感じるかは人それぞれです。ただ、瞑想は幸せに至る近道だと、経験上思います。
※今回のブログの題名が「安らぎの呼吸 壱ノ型 初夏の木漏れ日」となっていますが、特殊な呼吸法があるわけではありません。弐ノ型も今の所ありません。ご容赦ください。