一、南無妙法蓮華経成

 以前ブログ☆直幸やこの「ブログ★なおゆき」で何度か「南無妙法蓮華経成」と書いてきました。その南無妙法蓮華経成を僕がどう定義しているかについて説明させていただきます。

 なぜ「南無妙法蓮華経」の最後に「成」をつけているかというと以下の三つの意味を南無妙法蓮華経成に込めていたからです。

 ①人は誰もが仏になっている
 ②人は誰もが幸せになっている
 ③世界は平和になっている

 ①~③まで語尾を「なっている」にしています。ですが現在の世界を見渡すと①~③まで、現実とかけ離れています。プーチン大統領が現在ウクライナに行っている侵略戦争は仏の所業とはいえません。ウクライナから逃げ難民となった方々は幸せとはいえません。当然世界は平和ではありません。

 ですが僕は①~③に「なりますように」と願いながら南無妙法蓮華経成と書いていたわけではありません。「になった状態」を「感じながら」書いていました。微妙にちがうのです。

 どういうことかといいますと、『幸福論』(アラン著 神谷幹夫訳 岩波文庫)には「しあわせだから笑っているのではない。むしろぼくは笑うから幸せなのだ」とあります。また「うまく行ったからうれしいのではなく、自分がうれしいからうまく行ったのだ」ともあります。

 またことわざで「泣きっ面に蜂」「笑う門には福来る」というものもあります。

 また僕が数十年生きた中の出来事やその時どういった感情だったかを振り返り、アランさんやことわざなども考慮してみると、どうも感情というのはそれを引き起こす状況を作り出す、あるいはその状況に行く力になるようです。

 ですので、南無妙法蓮華経成は①~③に「なってほしい」と願うのではなく、①~③になった時どういう感情になるのかという事を感じながら、①~③「・・・成」と書いていたのです。

 現在ウクライナの人々をロシア軍が襲っています。ニュース映像でウクライナの子供たちが流す涙を見ると、心がしめつけられます。

 ですが同時に、祖国を守るために戦っている戦士の勇気、市民のみなさんの忍耐、互いを気づかい、助け合われている姿には、大きな尊敬の念を抱きます。ウクライナの人々は戦いは祖国を守るためだけでなく、自由と民主主義を守るための戦いでもあるのです。日本人も無関係ではありません。ウクライナの人々には頭がさがります。

 今まで僕は①~③の意味を「南無妙法蓮華経成」に込めていましたが、今日からは「④ウクライナの人々は勝利している」も加え、そうなった時どう感じるのかを意識しながら書いて行きます。

 南無妙法蓮華経成。

 南無妙法蓮華経成である必要はありません、一人でも多くの人が「ウクライナの勝利」を思い、感じ、その人ができることを行った時「ウクライナの勝利」は近づきます。インドが独立しベルリンの壁が崩壊し、ロマノフ王朝が終わったように。

 ※2022年3月10日に一部加筆しました。