カントオㇿワヤクサㇰノアランケㇷ゚シネㇷ゚カイサㇺ

 『日本的霊性』(鈴木大拙著 岩波文庫)を読み、思うところがありました。まず「霊性」という言葉がこの著書の根幹になっているので、鈴木大拙の定義を引用します。

 「精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中では、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることができない。精神と物質との奥に、いま一つ何かを見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾、闘争、相克、相殺などということは免れない、それでは人間はどうしてもいきていくわけにはいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょうずるに二つでなく一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。」

 と書かれています。具体的な例で説明しますと、癌になられた方が、時間とともに「癌になってよかった」という風に心変わりしていった話を聞かれたことはないでしょうか?またLiSAが歌う『紅蓮華』の中には「ありがとう悲しみよ」という歌詞があります。
 誰でも癌になったらショックです。癌になるのは嫌です。ですが何らかの理由で感謝に変わったということです。矛盾、対立が統合されています。その働きをもたらすものが霊性です。そこには自己の心の奥を、深く見つめることによって、感じることのできる大きな慈悲、大きな愛があります。

 鈴木大拙は「日本的霊性」を禅と浄土系思想によって特徴づけています。現代の日本人の生活に与えた影響を考えると、それについては僕は異論はありません。
 
 そして鈴木大拙は日本的霊性は禅と浄土系思想が発展した鎌倉時代に顕現したと訴えています。鈴木大拙はさまざまな書物を読みその結論んたどり着いています。その結論を得るために頼っているのが「文字」です。つまり文字のなかった昔のアイヌ文化や縄文文化の中で、深い霊性を持った人が現れなかったと証明することはできません。
 
 僕は縄文時代縄文人や、DNAが縄文人に近い昔のアイヌ人や、現代でも狩をして焚火を囲んでみんなで話をすような、伝統的な生活をされている方々のほうが、現代文明の中で生きる人々より、自然災害や病気で亡くなる方も多かったと考えます。愛する人との死別といった経験は霊性の自覚の機会になります。

 禅宗である曹洞宗の開祖である道元が目指したのは今、ここにある幸せを生きるということです。霊性を自覚し続けるということです。そのために簡素な生活ができる場を作りました。さまざまな娯楽のある現代人の生活習慣では、霊性を自覚し続けるのは難しいと思います。むしろテレビやネットがない生活のほうが、簡素な生活があります。地に足の着いた生活があります。

 アイヌの言葉に「カントオㇿワヤクサㇰノアランケㇷ゚シネㇷ゚カイサㇺ(天から役目なしに降ろされた物はひとつもない)」というものがありますが、これも霊性の働き無しには出てこない言葉だと思います。多様性を認めるおおきな愛のある言葉です。イエス・キリストは「 敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」という言葉を残していますが、これは他者に分かりやすいように「敵」という言葉をつかったのであって、イエスさん自身は誰も何も敵だとは思っていなかったと思います。「天から役目なしに降ろされた物はひとつもないですね」といわれたら「その通りです」とおっしゃったと思います。

 ですので霊性の自覚の機会が多く、簡素で地に足のついた生活をされていた昔のアイヌ文化や、縄文文化や、現代でも伝統的な生活をされている方々の中にこそ、イエス・キリスト道元親鸞のような、深い霊性を生活に役立たせて生きていた方々、今も生きている方々が、たくさんいらしたし、いると考えています。

 ただ、霊性を生活に役立てている人が偉いというわけではありません。偉くないということでもありません。身体、精神、霊性を調和させ生活すれば、安らぎと喜びが多く、困難に立ち向かいやすくなる生活が送れるということです。こころから悲しみに、ありがとうと言えるようになれます。
 
 僕は最近スプラトゥーン2で遊ぶのをやめました。僕にとってスプラトゥーン2で遊ぶことは安らぎや喜びよりもイライラや怒りの多いものでしたが、幸せな時間ではありました。総合的に判断して遊ぶのをやめただけです。ジェットコースターが好きな人も嫌いな人もいます。怪談話が好きな人も嫌いな人もいます。登山が好きな人も嫌いな人もいます。幸せの形は人それぞれです。幸せかどうかを決めることができるのは、その当事者のみです。

 ですので「日本的霊性が初めて文字化されたのは鎌倉時代だった」というのが正確だと僕は思います。

 イヤィラィケレ(大いなる存在に感謝します※アイヌの言葉の僕の意訳です)

 

 ※2020年9月1日に記述の一部を修正しました。