まぼろし~

 「ブログ★なおゆき」の2019-05-21にのせた詩「生きているんだ」について少し解説させていただきます。
 
 詩の中で「ある物理学者が言ってたよ」と書きましたが、この物理学者は実在しません、色々な方々がおっしゃていたことをまとめたものです。ただ「時間は実在しない。幻想である」とおっしゃっている方はいます。http://mahoroba19.com/archives/3397
https://www.excite.co.jp/news/article/Tocana_201809_post_18238/
「ブロック宇宙論では、時間が空間的に扱われ、過去も未来も存在し続けると考えられている。」とあります。ちょっとイメージが湧きにくいですが、一枚のDVDに収められている映画には、その物語の過去、未来、現在が1枚のDVDの中にあります。今(DVD)の中に過去、未来、現在があります。

 その他に時間が幻想であるという僕なりの考えが2点ほどあります。

場所、運動によって時計が刻む時間は変わります。(重力の影響で立っている人の頭と足では刻む時間は違います。速度の影響で宇宙ステーションと地上の刻む時間も違います)それが「固有時」です。

 では「今」とは座標時(座標時とは人類が便宜上決めた共通の時間)のことなのでしょうか?これもなんだか腑に落ちません。「今」は便宜上決めれるようなものだとは考えにくいです。本当の現実には、現在、過去、未来といった時間など存在せず、今しかないのであるならば、無限に存在するそれぞれの時計が刻む固有時の「今」はどれも今だと考えられます。今しかないのですから。そう考えると腑に落ちます。


 距離=時間×速度

 速度=距離÷時間

 時間=距離÷速度

 この三つの式は距離と速度と時間の関係性を表しています。もし宇宙のすべて(すべての過去とすべての現在とすべての未来も含む)が完全な0の中にあったとしたら、速度は存在しません。式の上では時間も0になります。137億年で、ずれ1秒以下といわれる「光格子時計」も距離があることによって時間を計測できます。距離が0の世界では時間は計測できません。計測できないから存在しないとも言い切れませんが、存在を証明することも難しいのではないのでしょうか。上記の式に0が代入できるのは「距離」だけです。0で割ることはできないので(なぜ0で割れないかはhttps://originalnews.nico/146955の記事が面白です)この関係性において「距離」が最も重要であることが分かります。距離と速度(動き)が存在することによって、その関係性を計測できるものを人は時間と呼んでいます。

 「記憶にある過去」や「予想できる未来」があるので「人間が認識できる今」を「今」だと想像することができます。その結果「時間がある」と人間は想像することができます。今も過去も未来も結局意識の中にあります。時計が時間を計測できるからといって、過去や未来が我々の意識が作ったものではないとは言い切れません。10:00を時計の針がさしていてそれを人が見ていたとして、9:55を指していた時計の針は記憶です。10:05を指すであろう時計の針は予想です。つまり意識の働きです。意識のほうが時空を動いていると考えるほうが腑に落ちます。

 上記の3点を根拠に僕は時間が幻想であると考えています。

 たとえ「時間」や「現実、阿弥陀仏、神」といったものが幻想だとしても構わないと僕は考えています。現在の僕が、幸せに暮らすためには、それらが幻想であろうとなかろうと、どっちゃでもかまいません(タイムマシンや「どこでもドア」を作ろうとしている人には重要な問題ですが)。時間、現実、阿弥陀仏、神といったものが役に立つ幻想であるならば、利用し、愛し、楽しみ、感謝しながら生きるのみです。

 幸せでいたいなら幸せでいることができる幸せに感謝します。

 あしきをはろうてたすけていただきありがとうございます。